ののログ

とりとめないやつ

フィクション

私は自分が見知らぬ建物の屋上にいることに気づいた。なぜ私はこんなところにいるのだろう? 突然のことに理解が追いつかない。状況を問おうにも周囲には誰も居ない。おかしい。たった今まで、私は大学で出来の悪い学生を相手に素粒子物理学の講義をしていたはずだ。それが、瞬き一つする間に場面が無人の屋上へと移動している。瞬間移動したとでもいうのか。いや、そんなことはありえない。量子テレポーテーションによる物質の空間転移は未だ実現していない。ではこの不可思議な事象を一体どう説明すればよいのか。しばらく考えた末、私はある物理学的可能性に思い至った。

それは、素粒子のランダムな配置によって偶然私という存在がこの屋上に誕生したのではないか、というものだ。

素粒子とは物質を構成する最小のパーツ。水も、空気も、人間も、万物は素粒子からできている。もちろん記憶もそうだ。記憶は脳にニューロンとして刻まれるが、そのニューロン素粒子でできている。つまり、素粒子がランダムに並ぶことで、たまたま私という存在が瞬間的に誕生することもありえるのだ。『大学で講義していた』という記憶も、素粒子がたまたまそういう風に並んだ結果作られた虚構というわけだ。もちろん、このようなことが起きるのは天文学的な確率だ。しかし、確率が0%でない限り、それは起こりうる。

自分の置かれた状況を科学的に考察することで私は冷静さを保っていた。しかし、漠然とした不安が消えることはない。私はこの先どうすればよいのだろう。そもそも私という存在は一体ーー。

「あ、須藤さん、こんなところにいらっしゃったんですね」

ふいに後ろから声をかけられ振り向くと、一人の女性看護師が立っていた。

「もう、須藤さん。また一人で勝手に出歩いて。もうすぐ昼食ですよ。ほら、お部屋に戻りましょう」

呆れた表情で彼女は私を手招く。だが、私の意識は別のところに向いていた。須藤、とは私の名前だ。

「君、私を知っているのかね? ということは私は過去にも存在していたということか? それとも、これも素粒子のランダム配置が作り出した虚構の記憶にすぎないのか?」

私の問いに看護師は呆れた表情を見せる。

「また難しい話をして……。大学教授の頃を思い出したのかしら。なんにせよ、認知症が進行したって先生に連絡しないと……」